10年前の写真。
まだ母が自力で、スタスタと歩ける頃。
なんだか思わずシャッターをきった一枚だけど、こういう写真って貴重だなと今は思う・・。
ここからの長文は、自分の覚書のため。
刻々と移り変わる現実を忘れないようにするため。
この試練を受け入れる心を整えるため。
そして万が一、同じような状況を経験する誰かの慰めになったなら、少し救われるかもと思って書いています。
・2022年8月3日(水)夜7時
実家近くに住む弟から連絡。
特養に入っている母が、脱水症状で入院した。
現在、点滴で治療中。
面会はできないけれど、状況を聞きに明日義妹が病院に行ってくれる。
・2022年8月4日(木)
義妹から、
「一旦持ち帰って夫と義姉と相談します、って言ってきました」
病院のドクターに、今後のことについてご家族と話しておきたいと言われたとのこと。
もしもこのまま回復が難しくて、口から食べることが出来なくなったらどうしますか?
胃瘻はしますか?人工呼吸器はどうしますか?などなど・・・
母は(父と違って)こういうときはどうするとか、どうしたいとか、何も言ってはいなかった。
代わりに家族が決断しなくてはならない。
でも不幸中の幸いとでもいうのか、この病院では(まだ第7波が落ち着いたとは言えない状況だったけど)ちょうどその週から面会を受け付けるようになっていた(1度に2名までで10分程度)。
母は、パーキンソンとレビー小体型認知症を発症して、もう7年くらい。
いまお世話になっている特別養護老人ホームに移ったのはコロナ禍になってから。
なので、この二年半、施設での面会はできていない。
会えるのは数ヶ月おきに予約される脳神経内科の付き添いのみ。
それも今年になってからは、薬の効きが弱まって覚醒している時間が短くなり、タイミングが悪いと双方向の会話はだいぶ困難になっていた。
今回も、面会時のタイミングで覚醒しているかどうかはわからないけど、会えるんだったら!と早速週明けに予約を入れた。
・2022年8月8日(月)
弟宅で同居していたときから、母の病院のアレコレは主に義妹が担当してくれていたので、弟は滅多に付き添いに来ない。
だから今回も、面会は義妹と行こうと思っていたら、弟が
「明日の面会、俺も行こうかな」
とLINEを送ってきた。
私と弟が一緒に母に会うなんて、2020年のお正月に母が一時帰宅したとき以来。
いま思うと、この日、揃って顔を見せに行けたことが本当に良かった。
・2022年8月9日(火)
昨晩、病院から連絡があって、母は口から摂取できるようになったので、なんと明日退院することになったとのこと。よかった。
義妹と交代した弟に茅ヶ崎の駅で拾ってもらい、湘南台の病院へ。
病院の面会はさすがのシステムで、玄関では検温だけでなく問診のチェックがあり、受付に面会の予約だと伝えると、医療用のマスクを渡されてその場で取り替える。
さらに入院フロアに降り立つと、その階の受付でフェイスシールドを渡される。
こんな格好で母にあって、認識できるかな・・・?と一抹の不安がよぎった。
・・・けれど、そんな不安は不要だった。
病室のベッドまでいったら、母はちゃんと目を覚ましていて、ここ数回の通院時のいつよりも、意識がしっかりしていた。
座位にはなれず、ベットに横たわったままだけど。
ときどき苦しそうに息を切らしながら、それでも聞き取れる程度の声で、「あら、二人で来たの?珍しい・・」みたいなことを言って、私たち姉弟をちゃんと認識していた。
認知レベルがだいぶ下がっているので、話すことは90%がトンチンカン。
実家の猫はもういないのに「猫の世話は?誰がしてるの?」と心配そうにきく。
「猫は大丈夫だよ。」となだめる。
さらに、亡くなって20年近く経つ父のことを
「お父さんがどうして死んだのか、まだわかってないのよね・・・」というので
「え?お父さん、迎えに来たの?」と、ちょっとふざけて聞いてみた。
・・・ら、「来ない」とちょっと笑って、現実に戻った目をしてた。
そんな冗談も言えるくらいの雰囲気だった。
なにより、娘の私より、息子との久しぶりの再会が嬉しかったらしい。
やっぱりいくつになっても息子には、同性にはない、何か特別な思いがあるのか、、、。
母の目がいつにも増してキラキラしたのを私は見逃さなかったよ(笑)
久しぶりに弟の顔を見る母と、小さく弱くなった母に寄り添う弟。
彼の務める会社や業界のことがニュースになったりすると、「大丈夫なのかしら?」とずっと彼のことを心配していた。母は、やっと会えた弟に
「会社は?仕事は?」と目を見て問う。
(このときはしっかりしてた10%分)
同居中は散々ぶつかったりもしていたけれど、このときばかりは母の手を握って優しく話しかけていた。
「大丈夫だよ、働いてるよ。S社でちゃんとやってるよ」
息子から聞く言葉に、きっと安心したはず。
「明日退院して、施設の方に戻れるんだって」
というと、
「そんなの誰が決めたの? 聞いてないわよ・・」
とちょっと不機嫌そうに拗ねる感じ。
(そうそう、これがいつもの母の感じだ・・^^;)
点滴ってすごい効果あるんだな・・・と思った。
面会は10分くらいで・・・って言われたけど、多分15分以上は居たように思う。
融通をきかせていただいた病院の対応に感謝。
この日は担当ドクターに会えずに帰ってきてしまったので、日を改めてお話させていただく時間を作って来てください、と後日連絡が入る。
・2022年8月15日(月)
弟と二人、すでに母は退院している病院に、再び訪れる。
今回の入院を機に「人生の最終段階の選択と決断」についてドクターから説明を聞く。
多分、私たちと同世代だと思われる女医さん。
今の状況と今後の可能性について丁寧に説明してくださる。
今回はうまく回復できたけれど、体調や食事摂取の状況から、今後もまた食べられなくなる可能性は高い。
そうなったときにどういう対応をするか?を決めておきたいというのが今回の主題。
すでに数ヶ月前から固形物は食べられない状態で、とろみのあるものを少しずつ摂取させてもらっていて、それも最近では受け付けない日が度々あると、春頃の通院時に介護スタッフの人からも聞いていた。
ドクターから提示された主な選択肢は三つ。
① 食べられなくなったらそれを受け入れて、自然に任せる。
② 胃ろう(胃に穴を開けて栄養を入れる)する。
③ 点滴を行う。
あらかじめ聞かされていて、私たちは①を選ぼうと思っていた。
先日の点滴効果からすると③で、と言いたくなるところなのだけれど、母のいる特養というのは、看護師さんは見回ってくれているものの、医療施設ではないので点滴は行えないということ。
もし常時点滴で処置をするとなると、医療介護専門の病院に転院する必要がある。
慣れ親しんだスタッフの方達と離れ、また新しいところに移動するのは母にとってはストレスだろうなと思った。
そして、そこに入ったら「臨終のときまでほぼ会うことはできないです」
胃ろうについての説明は、以前、脳神経内科の主治医からも聞いていたので、実際に介護中に胃ろうしてその後看取ったという方の話も聞いたし、感染症のリスクなどについても調べた。
「胃ろうしても、口から食べられるように回復する人もいます」みたいなことがネットには書かれているけれど、母にはそれは望めない。
それ以上に、晩年は食べることくらいしか楽しみがなくなっていた母に、単なる栄養補給となってしまう胃ろうの手術をさせるのは、なんだかこちらの勝手な思いを押し付けるような気がした。
このまま会えないなんて嫌だし、綱渡りな感じでももう少し母は頑張れるんじゃないかという淡い期待もあった。
だから、私と弟は、①を選択した。
母がもし食べることを拒むようになったら、それが終末期の自然な形として受け入れようと。
説明してくれた女医さんは、私たちの決断を受けて、「自分の親も同じような歳で、今後こういうことが起こる日が近いんですが、私も①を選択すると思います」と励ましのような、慰めの言葉をくれた。
それでも、その決断が本当に良かったのか、、、心は晴れない。
静岡に戻り、夫に話すと、
「末期医療に携わってるドクターが、がんの患者さんでも最後は食べられなくなって、最終的には餓死することになるけど、それが一番苦しまない最期になるって、何かの記事に書いてあったよ」
と、慰められる。
次の日は、堪えられず、夫の母に事情を伝えると、
「間違ってないよ。大丈夫。私がなっちゃんのお母さんの立場だったら、それがよかったって思うよ」
と、優しく抱きしめてくれた。
初めて涙が出た。
・2022年8月18日(木)
弟が過日のドクターのところに行き、書類にサインをしたとのこと。
母は、900カロリーくらい食べられるようになったときいて、ホッとした。
実は、この週末、弟家族は、義妹のお母さんやお兄さん家族を引き連れて、総勢10名の沖縄旅行を計画していた。
23-24日は、私たち夫婦も束の間の夏休みで信州周遊の旅に。
双方無事に旅行にも行けて、落ち着きを取り戻そうとしていた矢先。
想定していたよりも随分駆け足で、母はお看取り部屋と呼ばれるターミナル室に移動することになった。
・2022年8月27日(土)
午前中スポーツジムに行ってひと汗かいて家に戻ろうとしたとき、義妹からLINE。
「すぐ、電話ください」
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